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2013年02月18日 (月) | Edit |

かえるネットでともに活動する仲間から「オレは知ったからには伝えたい」とメールが届きましたので、みなさんにもご紹介します。



今日は原爆症認定訴訟を闘う被爆者のKさんに会いました。
Kさんから被爆体験の手記を見せてもらったからメールします。
こんなメールもらってもどうしようもないと思うかも知れんけど、大切なことだと思うし、オレは知ったからには伝えたいです。
所々略してるから、上手く伝わるかどうか分からんけど、それでもこんな思いをして生きてる人がいることも知っとってほしいと思います。

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―1944年8月9日、広島市仁保町で生まれ、翌年8月6日の原爆投下の日は私にとって満1歳の誕生日3日前の出来事でした。
爆心地より4日キロメートルほど離れた自宅は、原爆が炸裂した後、突然の爆風で天井が吹っ飛び、窓ガラスが粉々に割れて飛び散り、足の踏み場もないほどだったそうです。
その時井戸端で顔を洗っていた父は、縁側のハンモックに寝かされていた私を抱きかかえ室内に入ったものの、師範学校の教師をしていましたので、生徒の安否が気がかりになり、私を母に預けて学校に出かけていったそうです。
まもなく近くにある仁保国民学校は緊急の救護所になり、市内の中心部からおびただしい数の傷ついた人たちが次々に集まってきており、母は私をおぶって町内の人達と共に負傷者の救援活動や炊き出し等に当たったそうです。
家に落ち着くことが出来たのは、原爆投下後2週間くらいたってからで、私たち家族は、その後も同じ場所で生活してきました。

小学校に入学してからも、身体は弱く扁桃腺がよく腫れ、特に目は光に弱く、眼科にはよく通いました。
学年が進むにつれ、関節の痛みが加わり、欠席する日も多い学校生活を送ってきました。
それでも縁があって1967年には結婚することができ、2人の子どもにも恵まれました。
(中略)
1994年ごろからは体調不良が顕著となり、病院通いが続きました。
そして2000年、私も被爆者にとって「最大の敵」とも言われている「癌」、子宮体ガンになりました。子宮、卵巣、リンパ節全摘出手術を受けました。
その時に「すい臓に腫瘍ができている」こともわかりました。
2003年6月原爆症の「認定」を求めて申請しましたが、翌年2月に却下されました。すい臓、脾臓切除手術のため、川崎医大に入院中ではありましたが、そのベッドの上で、必死の思いで異義申立書を書き、厚生労働省に提出しました。それから2年以上も経った2006年5月、ようやく厚生労働省健康局長より「異義を棄却する」という決定通知書を受け取りました。
2006年11月岡山地裁に提訴の後、集団訴訟で闘うことになりました。
(中略)
2010年6月16日の判決が下される日、“当然の勝訴”を確信しておりました。
しかし被爆者援護法の精神である「被爆者の心に寄り添った」判決になっておらず、判決文には「結婚後は体調も安定し、平成12年6月(子宮体ガン発症)まではむしろ健康な状態が続いている」とありますが、私は自分のことを健康と思ったことはありません。
(中略)
被爆者の心からの声をもっと伝えたい、それと同時に、私は絶対に被爆しているのだ、という思いを強く訴えたいと、2010年6月29日、控訴にふみきりました。
(中略)
68年前のあの日、尊い命を一瞬にして奪った恐ろしい「原爆」。
あのきのこ雲の下で何が起こったのかを、わたしたち生き残っている被爆者は、世の中の人々に伝えていかなくてはなりません。そのために生かされているのだとも思っています。そのような思いで裁判に臨んできたのです。まさに「命がけの闘い」と言っても過言ではない。あの日から68年、まだ苦しみは続いているのです。




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